篠原無然
| 篠原無然
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聖人と呼ばれた社会教育者
篠 原 無 然
明治22年(1889)~大正13年(1924)
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篠原無然(本名・禄次)は、明治22年(1889)浜坂町諸寄に生まれた。明治37年(1904)神戸商業学校に入学したが、学費を苦学によって賄っていたため、体調を崩し明治41年(1908)退学して諸寄に帰ってきた。諸寄での病気療養中、美方町小代小学校の代用教員として従事するかたわら青年会を組織するなど社会教育活動を精力的に実践した。
明治44年(1911)早稲田大学文学部哲学科に入学し、勉学のかたわら日本力行会、さらに修養団に入団、幹事となって全国を講演行脚し社会教化に努めた。やがて、世の中に失望し「人界に師なし」として深山に修養の場を求め、大自然を師とするため、大正3年(1914)飛騨に入山した。
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| 篠原無然生誕百年記念碑(諸寄集落センターグラウンド)
・建立年月日 平成元年5月14日
・碑文 碑面 無然 有限の我を献げて限りなき生命の栄えいのらるゝかな 峯山
碑陰 建立年等(内容省略)
・揮毫 岡本峯山
・建立者 篠原無然生誕百年記念事業委員会 | 飛騨平湯では、村人たちが無然の住居と教育の場として青年会館を建て、無然はそれを「やはらぎのその」と名付けた。無然は平湯村に青年会・処女会・戸主会をつくり、社会教育の実践と村の経営についての指導を行ない、村人とともに“飛騨楽園”の建設をめざした。 また、当時は生糸産業が隆盛を極めていた時代であり、信州の製糸工場の工女たちが劣悪な条件で働いていることに憤りを感じた無然は、各工場を訪問して工女を励まし、事業主に改善を求め、実態を新聞に連載し、世の中に大きな衝撃を与えた。大正12年(1923)には、大阪府の嘱託として難波病院に勤務し、入院している娼婦たちの相談相手や生活指導も行った。 大正13年(1924)平湯の人々のたび重なる懇請もあって、無然は平湯へ帰ることにするが、安房峠(岐阜県)で猛吹雪に遭い、村の光が見える安房平で力尽き、平湯の村を見守りながら永い眠りについた。 無然の36年の短い生涯は、人を愛し、道を求め、その思想を実践し、社会教育に身を呈した壮絶な人生であった。 |
安房峠・無然遭難の碑
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篠原無然顕彰碑(諸寄駅前)
・建立年月日 不明 ※平成元年5月14日に諸寄墓苑にあったものを篠原無然生誕百周年記念事業委員会によって、諸寄駅前に移転された。 ・碑文 碑面 篠原無然之碑 天香書 ・揮毫 一燈園園主 西田天香 ・建立者 不明 |
飛騨工女救済に関する書類
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篠原無然生誕地碑(諸寄郵便局前)
・建立年月日 昭和57年3月7日 ・碑文 碑面 篠原無然先生生誕之地 碑陰 社会教育の先覚者 ・建立者 諸寄区 ※昭和62年9月3日兵庫県、浜坂ロータリークラブ、浜坂町農業協同組合によって再整備された。 |
当時の製糸工場風景
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難波病院娼婦救済に関する資料
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平湯「やはらぎのその」
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無然の講話風景
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