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	 森田因山
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 文化文政期、俳諧の道を探求した俳人
 
 森 田 因 山
 
 延享4年(1747)~文化4年(1807)
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 森田因山(名を重興、字を九左衛門)は、延享4年(1747)新温泉町湯に生まれた。のちに「芋渓堂」と号した。
 また仏門に入り「無為居士」と号した。妻はキヨ(無尼)といい、二人の子ども(竹斐・寸風)も俳諧の道を志した俳人一家である。
 
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			| 江戸時代の文化・文政頃、湯村温泉周辺では俳諧が盛んに行われた。これは全国を巡り、俳諧の道を探求した多くの俳人が古くから知られていた湯村温泉を訪れ、その影響を受けて俳諧が盛んに行われるようになったものと思われる。因山は、京都の俳人高井几董(与謝蕪村の直系の弟子)に約10年間師事し、俳諧を学んだ。地元に帰った因山のもとには近郷近在の俳諧を習おうとする人々が集まった。天明8年(1788)の春、因山の初老を祝った句集が温泉や新市・浜坂の俳人が協力し、地元をはじめ京都の宇治や滋賀の俳人、また師几董の句を載せた因山の句集「老の柳」が出版された。文化3年(1806)因山が61歳のとき、親しかった千原の和且、浜坂の淇水、新市の朱がいの3人が若くして亡くなったことを悲しんだ因山は、「三日の月影」と題する追悼句集を出版した。因山もその翌年文化4年(1807)に亡くなった。このとき、浜坂の俳人森藍尾は23歳であった。|  |  | 妻キヨ(無涯尼) 
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|  千原・屋久良之助
 
 |  因山の長男・盤渓
 
 |  句集「老の柳」
 
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|  因山の墓
 
 |  「三日の月影」
 
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