塩冶周防守顕彰碑
塩冶周防守は芦屋城を居城とした城主で、天文8年(1539)に亡くなり、芦屋の龍潜寺に開基として位牌が祀られています。この碑は、昭和4年昭和天皇御大典記念に芦屋区が塩冶周防守の治世を偲び建てたものです。芦屋城は、周囲を海と断崖絶壁に囲まれた標高170mの山頂にあり、海上交通を押さえるために築かれた城です。
子孫の塩冶周防守高清は城主として水軍の将奈佐日本助、佐々木三郎左衛門と共に活躍しました。天正9年(1581)羽柴秀吉軍が但馬を攻めたとき芦屋城は落城し、高清は鳥取城主吉川経家を頼り、翌年鳥取城の出城雁金城や丸山城を守りました。再び羽柴秀吉軍と戦ったが、鳥取城の落城により高清は、奈佐日本助とともに丸山城で自決しました。高清と奈佐日本助の墓は、丸山城の麓に祀られています。
・建立年月日 昭和4年
・碑文 碑面 城主塩冶周防守之碑
碑陰 光照院殿梅月宗香大禅定門
天文八年己亥五月八日逝去
・揮毫 不明
・建立者 芦屋区 |
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