加藤文太郎
| 加藤文太郎
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生まれながらの単独登山家
加 藤 文 太 郎
明治38年(1905)~昭和11年(1936)
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加藤文太郎は、明治38年(1905)浜坂町浜坂に生まれ、大正8年(1919)浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸市の三菱内燃機神戸製作所(三菱神戸造船所)に製図研修生として入社した。設計課員として精巧するかたわら、兵庫県立工業学校別科、神戸工業高等専修学校電気科を卒業するなど、技能の向上に専念した。
登山は大正12年(1923)からはじめ、昭和3年(1928)頃から単独行を重ね、積雪期の八ケ岳、槍ケ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳、笠ケ岳など果敢な山登りを展開した。中でも冬の槍ケ岳単独登頂は、当時の新聞や岳人たちを驚かせた。
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| 加藤文太郎顕彰碑(浜坂)
| 用意周到かつ独創的にして勇猛果敢不屈の岳人としての文太郎は、岳人たちから「単独登擧の加藤」「不死身の加藤」と呼ばれ、日本の登山界に不滅の足跡を残し、国宝的な存在として賞賛されるまでになった。
やがて、文太郎もより困難な登山に挑むための同伴者を求め、昭和9年(1934)吉田富久と前穂高北尾根を目指し、翌年には単独で立山から針ノ木岳を越えて大町に出た。そして、昭和11年(1936)再び吉田富久と槍ケ岳北鎌尾根に挑むが、猛吹雪にあい天上沢で31歳の青春を終えた。
文太郎の死をある新聞は、“国宝的山の猛者、槍で遭難”と伝え、文太郎の山行と劇的な生涯は新田次郎によって、小説『孤高の人』として描かれ、山を愛する人々の心の中に今も感動を呼び起こしている。
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遺品
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新田次郎文学碑「孤高の人」(浜坂)
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浜坂町立加藤文太郎記念図書館
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