萬霊供養塔
天保の飢饉は、天保7・8年(1836~7)頃全国的な天候不順で米価が高騰し、飢餓や疫病の流行により多くの人々が亡くなりました。
高見の萬霊塔は、この犠牲者を供養したもので、そのときの様子を次のように記しています。
「天保七丙申海内末曽有の飢饉且疫病流行諸人是をすくふといへども終にふたつの難に死するもの子は親を背負ひ親は子をいたき阿るき二子を担ひ又は道路に
倒れ死して僧の弔ひも受けずみずから穴をうがち埋めるもの多く中に家絶へ行訪ふ人のなきもあればいささか追善を営まんとて四五輩志を一にし諸施をこひ四緑
の施餓鬼をうけ諸霊の塔をここに立て衆人の回向をすすむ。」
また、高見墓地内に明和8年(1771)9月に施主市原氏・再興施主村中によって建てられた「萬霊供養塔」があり、以前にも同様のことがあったがと思われます。
○萬霊(高見)
・建立年月日 天保9年(1838)
・碑文 碑面 萬霊 建立主旨(内容省略)
・建立者 有志 |
○萬霊供養塔(高見墓地)
・建立年月日 明和8年(1771)9月
・碑文 碑面 萬霊塔
碑陰 建立年・建立者等(内容省略)
・建立者 施主市原氏 再興施主村中
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