真先秀太郎
| 真先秀太郎
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村づくりにつくした医師
真 先 秀 太 郎
安政3年(1856)~大正3年(1914)
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真先秀太郎は、安政3年(1856)三尾に生まれた。明治6年(1873)京都府園部の田原正績に師事して漢学を学んだ秀太郎は、明治7年(1874)小学栃谷校(現在の大庭小学校)の校長になった。その後広島医学校に進み、広島、静岡、栃木の各県立病院の医師となった。明治21年(1888)栃木病院を退職し栃木に医院を開業した。その後、栃木産婆養成所を開設し自ら所長兼教師となって多くの産婆を育てた。明治44年(1911)村人の要請で三尾に帰ってきた秀太郎は浜坂に医院を開業した。
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| 真先秀太郎遺徳碑
| 三尾に帰ってきた秀太郎は、三尾が魚の宝庫に恵まれながら、港の整備が悪いこと、上水道がないため伝染病が発生すること、海が荒れると陸の孤島になってしまうことなどを解決するため、三尾地区の近代化に取り組んだ。また、『十年の計は樹を植えるに在り』『百年の計は人づくりに在り』を実行するため、教育振興基金を作り人材育成にも努めた。しかし、明治45年(1912)過労がたたったのか秀太郎は、脳内出血で倒れてしまった。その後回復した秀太郎は、大正3年(1914)栃木へ先妻と長女の墓参りに向う途中、東京の親友前田多蔵宅(早稲田大学創立にかかわった三尾出身者)で、亡くなった。享年五十九才。 三尾の人々は、偉大なる先人・秀太郎の死を嘆き悲しみ、後年その遺徳を偲んで顕彰の碑が建立された。
◆真先秀太郎遺徳碑 ・建立年月日 大正9年10月 ・碑文 碑面 遺徳碑 建立主旨(内容省略) ・揮毫 早稲田大学幹事 前田多蔵 ・建立者 三尾区民 |
大三尾
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