前田純孝歌碑・与謝野寛歌碑
| 前田純孝歌碑(岡の浜)
| 純孝(翠渓)は、明治13年諸寄の前田純正の長男として生まれました。兵庫県御影師範学校卒業後、東京高等師範学校に入学しました。兵庫県御影師範学校時代から新詩社に属し、機関紙「明星」に投稿していました。高等師範学校卒業後、大阪府立島之内高等女学校の教頭になり、明治40年秋庭のぶ子と結婚し、長女美津子をもうけました。
しかし、明治42年肺結核を患い、療養のため一人諸寄に帰郷しました。
郷里での闘病生活は悲惨を極め、明日なき病のなかから生への執着を燃やし続け、心の動きを短歌や詩に凝縮させました。明治44年9月病床で妻と子への想いを抱きながら31才の短い生涯を終えました。
純孝の薄幸の生涯とその悲しみのなかから生まれた歌は2千首にも及び、今なお多くの人々に感動を与えています。
前田純孝の歌碑は、諸寄海岸(岡の浜)と基幹集落センター、居組七坂八峠の汐吹岬公園に建てられており、純孝に関する資料は諸寄基幹集落センター内の資料室に展示されています。 |
| 与謝野寛・翠渓歌碑(集落センター前)
| ○前田純孝歌碑(岡の浜)
・建立年月日 昭和44年11月
・碑文 碑面 いくとせの
まえの落ち葉のうえにまた
落ち葉かさなり 落ち葉かさなる 純孝
碑陰 建立年・略歴等(内容省略)
・揮毫 前田純孝 ※碑文「純孝」のみ自筆
・建立者 前田純孝顕彰会
○与謝野寛・翠渓歌碑(集落センター前)
・建立年月日 昭和19年5月前田家墓地に建立、
昭和31年旧西浜中学校裏山白山公園に移転、
昭和55年現在の場所に移転。
・碑文 碑面 雞のこ恵朗丹比ゝ久春の日爾
光のとけき桃の一村 翠渓
(鶏のこえ朗にひびく春の日に
光のどけき桃の一村 翠渓)
まごころの光れる歌をなほよめ
バ 傅へて久しわ可き純孝
(まごころの光れる歌を猶(なお)よめば
伝へて久し若き純孝 与謝野寛)
・揮毫 翠渓の歌は、東京高等師範学校の同級生大伴茂、与謝野寛の歌は、自筆
・建立者 守安直孝(旧姓加藤・純孝の甥) |
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