田畑文太郎
 | 田畑文太郎
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但馬牛の改良に尽くした
田 畑 文 太 郎
明治27年(1894)~昭和51年(1976)
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田畑文太郎は、明治27年(1894)新温泉町熊谷に生まれた。熊谷小学校、温泉小学校高等科を卒業後、上
京して親戚の福井久蔵宅に下宿しながら、大正3年(1914)麻布獣医畜産学校(現麻布獣医大学)を卒業した。
大正6年(1917)故郷に帰り、翌7年には美方郡農業技手として、病牛の治療、飼育の指導に務めた。その後
、出石郡、氷上郡、津名郡、神崎郡に勤務し、昭和22年(1947)3月兵庫県農業会技師として再び故郷の畜
産指導にあたった。
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 | 氷上郡勤務時代の文太郎
| 戦後、肉牛の需用が高まるにつれ、質から量の時代を迎え、発育の遅い但馬牛の改良が必要となった。その対策として、但馬牛を捨てて因伯牛を導入するか、因伯牛の種牛と交配する方法が考えられた。しかし、文太郎は過去にスイス系の種牛を導入して失敗していることから、育種学的に最も時間のかかる選抜淘汰法を取り入れた。その結果、但馬牛本来の肉質を保つ蔓(つる)牛の育成、優良牛の保留といった政治的対策もあり、現在、但馬牛を最高良質の肉牛ブランドとして評価されるようになった。昭和38年(1963)50数年にわたる現役を退いた。
引退後は、かつて自分が勤めていた美方郡畜産連合会の建物を見下ろす場所で余生を送り、昭和51年(1976)83歳で亡くなった。
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 文太郎自叙伝「感謝」
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 文太郎自叙伝「感謝」
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 高松宮視察の様子
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 松村大蔵事務官視察
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 松村大蔵事務官の視察
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 畜産共進会場にて文太郎親子
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 中辻昼夜放牧場視察
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 田畑家記念写真
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 名牛「茂福号」
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