七理重恵
| 七理重恵
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日中友好に生涯をかけた学者・歌人
七 理 重 恵
明治20年(1887)~昭和40年(1965)
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七理重恵は、明治20年(1887)二方郡(美方郡西部)高末村に生まれた。明治35年(1902)久斗尋常小学校代用教員に採用され、その後兵庫県御影師範学校(現神戸大学)に入学した。この頃から歌人として「中学世界」の“青年文壇”や「文章世界」の“文叢”に論文、叙事文、抒情文、小品文、短歌、俳句などを投稿し多くの入選作品が掲載された。
大正4年(1915)に発行された「美方郡誌」には七美郡(美方郡東部)の各地を詠んだ短歌が載せられている。また、重恵は、久斗小学校校歌、赤崎小学校校歌、八田中学校・温泉中学校・旧大庭中学校の校歌や浜坂町歌などの作詞を多く依頼され、今日も愛唱されている。
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| 七理重恵歌碑(高末)
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重恵は、中日両国民の親善と文化の交流を唱え、大正8年(1919)に「留学生の会」を創立し、昭和5年(1930)には「中日学徒親和会」と改めた。昭和24年(1949)に会を「中日親和会」と改めて、再出発することになった。 大正8年(1919)の「留学生の会」以来、重恵の中国への愛着心と会の運営は、年と共に盛んになり、年一回の総会と節目の年には、記念式・音楽会・芸能祭なども開催されるようになった。以来、昭和40年(1965)まで終生、会長を務め、中日親善のために生涯をささげた。 昭和45年5月22日(1965)重恵は多くの人に惜しまれて78歳の生涯を閉じた。その後、重恵が心から願っていた日中友好は昭和47年(1972)田中内閣により国交回復が達成され、長い間、地味な活動を通して努力した苦労が報いられた。昭和58年(1983)重恵の郷里、高末地区により顕彰碑が建立され、その遺徳を今に伝えている。
◆七理重恵歌碑 ・建立年月日 昭和58年11月 ・碑文 碑面 なつ可れ須 冬裳志ほまぬ うるわし起 こころ能花は 当は丹匂は無 郷里にあり 事に婦れて 紫水山人
※なつかれず 冬もしぼまぬ うるわしき こころの花は とはに匂はむ 郷里にあり 事にふれて 紫水山人 碑陰 略歴(内容省略) ・揮毫 七理重恵 自筆 ・建立者 七理重恵先生顕彰会 |
温泉中学校校歌
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八田小校校歌
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久斗小学校校歌
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七理重恵書
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七理重恵書
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大正10年中国漫遊記念写真
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