34・両国梶之助
| 両国梶之助塚
| ある年、日本中を旅して回っていた両国梶之助という人が、千原にやってきたとき病気で倒れてしまった。
その人は、相撲取りで関取にまでなった人だったが、年をとってほねつぎなどしながら村から村へと渡り歩いていたのだった。
倒れて苦しんでいた両国梶之助は、千原の人に助けられ、その家で手厚い介抱を受けようやく元気をとりもどすことができた。
梶之助は、助けてもらったお礼に、ほねつぎの仕方をその家の人に教えながら死ぬまでその家で暮していた。
その家には、代々ほねつぎが伝わっていった。
両国梶之助の墓の横に植えられた小さな松の木が今では大きくなっていて、
その墓におまいりすると手や足の痛みがなおるということで遠くからやってくる人もいるということだ。
また、梶之助は、相撲取りだったので、関取だから、かぜの「せき」をとるお墓としても知られている。
※参考文献
喜尚晃子 「但馬・温泉町の民話と伝説」1984年より
[解説]
激しい労働を強いられた昔、足腰の痛む人は、今と比較にならないくらい多かったろうし、
ろくな薬もない時代、さぞつらかったろう。まして手足の不自由な人は、今も昔も同じこと。
神様の助けも借りたくなる。そのせいか、手足の悪いのをなおしてくださるという信仰は県下あちこちに散らばっている。
この千原の両国梶之助の塚もその一つ。梶之助は宝永年間に死んだ関取だという。
村の古老によると、「相当有名なお相撲さんだったそうですよ。それがどうしたことか、
尾羽打ち枯らしてこの辺までやって来て疲れて死んだということです。」という。
明治まではちょっとした塚だったのを、この土地の持ち主が現在のような碑に造りなおした。
川沿いに鳥取へ続く街道を、少し山側へ入った田んぼのそばにあり、自然石に肉太の字で「両国梶之助塚」とある。
裏に宝永五年の没年と春山登雲信士の字が刻まれている。相撲取りらしくない、世捨て人のような戒名だ。
死んだ時はそんな境涯だったのだろう。
お参りは誰かれない。手足の不自由な人があちこちからやって来る。
水や団子を供え香をたき、灯明(おひかり)をあげ、
「神経痛をなおしてください。手足をもと通り動けるようにしてください。」と一心に祈る。
但馬で一番多い石碑は、この塚のような相撲取りの碑だという。
そういえば、部落の入り口などにいかにも強そうな名前の刻まれた石を見ることがある。
村へ悪いものが入って来ないようまじないに立てたものもある。
中には、関取=セキ取りで咳の神さんになっているものもあれば、この塚のように足腰の強さにあやかろうというのもある。
体の大きさ、力の強さなど相撲取りを異常な力を持った人として特別視する感情が、
そこに働いていることは確かなことだろう。
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