前田多蔵
 | 前田多蔵
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早稲田大学の発展に尽くした
前 田 多 蔵
元治元年(1864)~昭和20年(1945)
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前田多蔵は、元治元年(1864)新温泉町三尾の小西家に生まれた。8才で香美町の大乗寺8世住職実応上人のもとで修行し、漢学を学んだ。15才のとき、前田家の養子となり、18才で森小学校の教師となったが、勉学を志し東京に出た。
上京後、多蔵は大隈重信の書生となり、早稲田大学の全身、東京専門学校に入学した。明治29年(1896)同校邦語政治学科を卒業するが、そのまま学校に残って早稲田大学の経営に参加した。大隈重信の片腕として、早稲田大学の発展に努めた。特に、大正6年(1918)の『早稲田騒動』でも多蔵は、その重責を果した。多蔵は早稲田の内外での戦争反対論者でもあった。日支事変の頃になると、但馬出身の代議士斉藤隆夫を始め、坪内雄蔵など政治家や学者と自宅で議論することが多かった。戦争が始まり、東京の上空に敵機が飛来するようになると、多蔵は「東条の馬鹿めが!」と独りつぶやきながら狭い屋の中をぐるぐる廻っていたとも言われている。
昭和20年(1945)7月25日疎開先の横須賀で日本の敗戦を見ることなく82歳で亡くなった。
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