新温泉町
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11・お城山のケイゾウ坊

昔、因幡国に、お城山のケイゾウ妨、辰己峠のオトン女郎、サイデン川原の赤テヌグイという、
大層化け上手の兄弟狐がおった。

ある年、お産の名手と聞こえの高い大工町の南条という医者が、患者の家から帰る途中夜になってしまった。

と、道端で、
「南条さん、南条さん」と呼ぶ者がある。
「なんだい、誰だい」
 と振り返ってみたが誰も居ない。

「ここです、ここです」
 というので声をたどってみると、道端の萩の下に狐が一匹しゃがんでいる。
「なんだえ、狐かえ」
「へえ、赤テヌグイです」

「フーン、赤テヌグイちゃ、われのことか。われは、このわしをだまさあと思っておるだか。
わえらどもに、わしは化かされんぞ。この間、わえら、淡路の人形使いらを、ひどい目にあわせたさあナなあ」

「へえ、風呂に入る言って、野壷に、着物ぬいで入って、『ああ、ええ湯だ』言って、手拭いで顔や体中、
こすりまわり、中にゃ髪はどえて洗う奴もあるだけえ、頭のテッペンから足の先まで糞まぶれ。
それで着物着ただけえ、着物も何も糞まぶれ。
牛糞を、『牡丹餅ちゃあ、こりゃ珍しい、こりゃこ馳走だ、宿屋も毎日毎日、同じやあなもんばっかりで、
ように飽きてていたところだ』って言って、『うめえ、うめえ』って、ようけ食いましたがナ」

「なんちゅうかわいさあなことをするだいや、ほんとうに。
また、われは、わしまで、そぎゃあな目に合わしようと思うだか」

「なあに、めっそうもなえ、一回かぎりの旅人とちがって、人助けするお医者さんを、なんで、騙さあとしましょう。
今夜、仲間の連中が、にわか(芝居)をしよるけえ、旦那さんはよう知っとんなるだけえ、ちょっと手えつけてもらいたあテです」

「いんや、いんや、わしは、こぎゃあ言っちゃあおられんだわい。早う、いな(帰ら)にゃならんだけえな」

「まあまあ旦那さん、まあ、ちょっと見たってくんなれ。それでなきゃ、
仲間に申し開きがありませんけえ、この袖をはなしません。まあ、ちょっと、あの音を聞いてみてくんなれ」

医者の耳に、三味線の音や、セリフを言う声がにぎやかに聞えてきた。三度の飯より好きな道なので、ふっとさそわれて、

「われがそぎゃあ言うなら、わえらが、どぎゃあなことをして見せるか、ちょっと見たらぁかなあ」
「へえへえ、さあどうぞ、どうぞ」

医者が舞台を見ると、『菅原伝授手習鑑』の一場面で、桜丸は舞台で大見得を切っているところだった。
いや、うまいのなんの、思わず、「よ-、千両、千両」

鳥取の街に、肥くみに朝早く出かけた男衆は、露で袴も着物もひとくされ(濡れそぼけ)になっていて、一所懸命、築地のはまをのぞき込んで、
「そこだ、うまいぞ」と大声を張り上げている医者を見た。
「おい、まあ見い。南条さんが、またばかされて、築地のはまァのぞいて、どなりよるぜ」と言いながら近づいて、
「旦那さん、旦那さん」
と手を引っぱり呼びかけると医者は、
「こりゃ、何するだェ、今がええ場面だヮ」
後手で、引っぱる人をばらきちらした。
「旦那さん、旦那さん、何ですィな、まあ、狐にばかされて。こっちに来釆なれ」
と言いながら、三人で力まかせに引っぱりよせると、医者はきょとんとして、あたりを見廻した。

    ※ 菅原伝授手習鑑=人形浄瑠璃の一つ。竹田出雲ほか合作の時代物。
      菅原道真が藤原時平のつげロによって筑紫に流されたこと。
      旧臣武部源蔵と三つ子の兄弟梅王・松王・桜丸夫妻が菅公の世継菅秀才を擁護する苦哀を脚色する。
      「車引の段」「寺子屋の段」が名高い。

    ※ 淡路の人形芝居=浄瑠璃がたり、三味線弾き、人形遣いの三者一体で演じられる。
      藩の保護のもとで主に農夫が中心になり、十八世紀前期の最盛期には四十人以上になり、
      島内はもとより東は関東、西は九州にまで演じてまわった。
      文楽人形より大型で極めて宗教約であり、力強さが農民にうけた。

一方、お城に仕えたケイゾウ彷は、飛脚になって、国表と江戸との連絡にあたった。

文箱をかついで、ケイゾウ坊が駆け出すと矢のような早さで飛んでいく。
普通の飛脚なら十日以上もかかるところを、三日で往復するのだから便利なこと、この上もなかった。
あるとき、ケイゾウ坊は、飛脚の道すがら峠の上で、猟師が、鼠の油揚げを使って、わなをしかけているのを見た。

「そういう、殺生なことを、するもんじやあねえ」
と言って、通りすぎた。
ケイゾウ妨は、長い間、人間に化けているので、大好きな鼠を油揚げにして食うことなぞできなかった。
それで、三里先まで行っていたが、

「なに、あんな、わなくらいに、かかるわしではない。いっそ、あいつを食ってこよう」
と引きかえし、そっと鼠に手をのばした。と「グォン!」と、わなが弾って、ケイゾウ坊の首に縄がかかり、
縮め殺されてしまった。

翌日、術師が来てみると、大狐がかかって死んでおり、そばに文箱があったので、
「畜生はあさましいもんだナ、たしかこの文箱は、わなを仕掛けているとき、声をかけて行った飛
脚が持っていたものだ。あの飛脚がこの狐だったのか」と思った。

紙の少ない時代だったので、文箱の紙を障子に貼っていたところ、この手紙は、因幡の殿さまからのもので、
字を読める人が見て噂がひろがった。
畏(かしこ)くも将軍家に差し上げる手紙を、障子に貼るとは不届きな奴、と罪になり、因州候は狐を使った罪により減封された。

   ※ 滅封(改易滅封)=改易とは御家取潰、すなわち大名旗本の領地を没収することで、
     領地の一部没収を滅封という。
     改易滅封は法令違反の処罰として、また後継者がない場合に行なわれ、特に江戸初期には多かった。

   ※ 池田候が減封になったのはいつか分らないが、それは、幕府に内密に地下の間道を作ったのが、
     大付の内偵によって知られ、幕府から尋問されたときの申し開きに、前記の話をし、
     「ケイゾウ坊の狐穴かと存じます」
     と弁明したのだというが、太平の御世、狐を使うとは不屈至極といって、減封されたのだという。

オトン女郎は、水もしたたる女に化け、好色の男を、武士といわず町人といわず、さんざんに悩ませた上、もてあそんでいた。
若桜町の惣兵衛油のおやじは、油を行商して、辰己峠にさしかかると、きまって眠くなって峠で一眠りした。

あるとき、峠でひと休みしていると、向うから天女が舞い降りたかと思う、年頃の美しい娘がやってきて、
さもなつかしそうに頬笑みかけたので、場所柄といい、あまりに美しい娘の一人旅といい、ただものとは思えず、
ぞくっと身震いした。

娘はやさしい声で、

「何もおそれることはありません。私は、実は狐のオトン女郎です。長い間、患って、医者に見て貰ったところ
『髪油をのむとよい』と言われたので、あなたが来る度に眠らせて油をわけてもらったおかげで、
こんなに元気になりました。これは、そのお礼です」

 と言って、懐から数枚の小判を取り出し、油屋に渡すと、がさがさと笹をならして立去った。

※参考文献
 喜尚晃子 「但馬・温泉町の民話と伝説」1984年より
 温泉教育研究所 「温泉町郷土読本-温泉町誌-」1967年より

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