新温泉町
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前田純孝

2006/11/22

前田純孝
前田純孝

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悲しくも新しい情感に満ちた明治の歌人
  
            前 田  純 孝(翠 溪)

           明治13年(1880)〜明治44年(1911)
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前田純孝(号・翠溪)は、明治13年(1880)浜坂町諸寄に生まれた。4歳で生母と離別するなどの不幸な環境が、純孝の生涯に暗い影を落としたと言われている。明治35年(1902年)兵庫県師範学校(御影師範)を卒業した純孝は、周囲の反対を押し切って、東京高等師範学校に入学した。御影師範時代から本格的に歌の勉強をはじめ、「新詩社」に所属し「明星」にも歌が掲載されている。東京上京後は、与謝野寛(鉄幹)らと「明星」に精力的に作品を発表した。また純孝は短歌、詩、童謡の作詞・作曲なども手掛けた。

純孝岡の浜歌碑(諸寄)
純孝岡の浜歌碑(諸寄)
 明治39年(1906)東京高等師範学校卒業後、大阪府立島之内高等女学校の初代教頭となったが、新設校のため仕事は多忙を極め、明治39年の夏休みの帰省途中に春来峠で倒れてしまった。明治40年(1907)復帰後、秋庭信子(のぶ)と結婚し、翌年長女美津子が生まれたが、家庭的に恵まれたのもつかの間、信子は産後の健康がすぐれず、純孝は仕事と家事・育児と多忙を極め、当時不治の病と言われた結核に冒された。妻子を明石の実家に帰し、療養所に入るが病状は回復しないため、ひとり故郷の諸寄に帰って来た。

前田純孝墓(諸寄)
前田純孝墓(諸寄)
 郷里での闘病生活は悲惨を極め、薬代にもこと欠き、病床で唱歌や童謡を書いては東京の友人葛原滋に送り、金に換えてもらう生活を続けた。病苦、貧困、孤独、絶望といった人生のあらゆる不幸を背負った純孝は、明日なき病の中から生への執着を燃やし続け、生と死を凝視し、人生の哀歌を切々と詠んでいった。そして、明治44年(1911)31歳の短い人生を閉じた。 
 純孝は、生前二千首にも及ぶ短歌を遺しており、その才能は「東の啄木、西の翠溪」と称されている


翠渓歌集
翠渓歌集
純孝基幹集センター前歌碑
純孝基幹集センター前歌碑
前田純孝歌碑
前田純孝歌碑
純孝居組七坂八峠歌碑(居組) 風吹けば松の枝鳴る枝なれば 明石を思ふ妹と子を思ふ
詩歌雑誌「明星」
詩歌雑誌「明星」

春来峠歌碑(村岡)1
春来峠歌碑(村岡)1
春来峠歌碑(村岡)2
春来峠歌碑(村岡)2
純孝妻信子と長女美津子
純孝妻信子と長女美津子
諸寄基幹集落センター
諸寄基幹集落センター
純孝の生まれた諸寄の基幹集落センターには、前田純孝資料室があり、純孝に関する資料が展示されている。  水曜日休館  要事前連絡  0796−82−5233


親友葛原滋
親友葛原滋
東京高等師範学校
東京高等師範学校
文芸誌「白百合」
文芸誌「白百合」
与謝野鉄幹・晶子
与謝野鉄幹・晶子

お問い合わせ
浜坂先人記念館
〒669-6702 兵庫県美方郡新温泉町浜坂
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